科学映画の制作

「68の車輪」の撮影

< 撮影者 春日友喜 >

科学映画の制作

半世紀に近い昔の作品であり、当時の記憶は大半消えてしまいましたが、断片的に残った撮影現場の様子を呼び起こしてみたいと思います。当時の制作者、制作主任、監督、撮影、照明、録音担当者など主要なメンバーはすでに他界し、私以外に見当たりません。

しかし作品は残り、久米川先生のご努力により再び日の目をみることができ、大勢の方に観ていただけることを大変うれしく思っています。

【回想1】

深夜の国鉄常磐線の踏切を横断するシーン。最終列車と一番列車の短い間隔の間に踏み切りを渡らねばならず、緊張が予想される時間帯でありました。午前1時が過ぎたころ、最終貨物列車が通過し、高圧電源が切られました。その瞬間、静かに待機していた現場はたちまち騒然となり、戦場のような雰囲気に。線路補強の槌の音、上に敷く厚い鉄板を運ぶ掛け声、大勢の作業員が入り乱れて飛び交う中、作業は敏速に着実に進行しました。

さて撮影隊といえば、この状況を予測できず、甘い撮影設計があっというまに崩れ、頼みのライトが所定の場所に届かず、ライト、ライトと大声で叫ぶカメラマン、重いライトを運びながら怒鳴り返すライトマン達、次第に殺気だってきました。作業用のライトでもちょっと当たればカメラは回る。この緊張と疲労は夜明けまで続き、今まで経験したこともない、撮影現場だったと記憶しています。

デパートの屋上から撮ったロングショット。画面の中では、ライトマン達が重い10キロライトを担ぎ右往左往しながら、必死で照らそうとしている様子が。普通だったらライトが向き出しの画像なんて撮るわけがないのですが、これがドキュメンタリー映画です。今ではあの時の助手は誰だっけなんて思い出し、プッと吹き出しながら、楽しく振り返れるほど年月が過ぎ去ってしまいました。

【回想2】

私はB班として撮影に参加していました。友軍というか割合気楽な立場で、運ばれるトレーラーの回りの状況を、味付け用に撮影する役目。春の野原を1週間ほど楽しめる予定だったのです。

しかし踏み切りを渡った翌日、異常事態が起こりました。車の免許を取ったばかりのカメラマンが、昼休みの間に交通事故を起こして病院に入院。すぐに現場の進行係りが病院向かったのですが、状況を十分運搬担当者に伝えないうちに、何事もなかったように午後の作業を開始したのです。

その瞬間、友軍であった私がメインのカメラマンに早変わりし、有無を言わせずトレーラーの周りを走り回り撮影しました。交通事故の様子を気に掛けながらも、タイヤの側で身構えると、当然のように撮影に集中。夕方、田んぼの低い土手につまずいて転ぶほど、疲れ果てていたことを今でも鮮明に覚えています。

カメラマンは、対向車と正面衝突したわりにはたいしたけがもなく、1週間程度で退院しましたが、現場への復帰はできなかったようです。

【回想3】

科学映画の制作

断片的な記憶の中で、今でも鮮明に思い出せる人がいます。あのトレーラーの屋上でハンドルを握っていた運転手の顔です。50歳前後で精悍な表情と真剣な目を持っていた、本当のプロのドライバーの威厳がありました。危険な場所に来ると、何回となく大声で怒鳴られたものです。

こちらも少々邪魔をしてもぜひあの顔を撮りたいので、夜になるとライトを照らす。運転者は見にくいはずで、鬼のような顔をして怒鳴ります。撮り終わってすみませんと大声で返します。そして目と目が合うと、何かお互いを認め、通じあっていたような気がします。私よりかなり年輩のように見えたので、多分もうお会いすることはできないでしょう。

無我夢中で頑張った68の車輪、今は亡き朋友M監督。いつも撮影中、彼の顔は左肩の側にありました。そして次の撮影対象を耳元で指示してくれたのです。スタッフの皆さんから信頼、尊敬されていた監督が完成後、教育映画祭で演出技能賞を受賞され、全員苦労が向われたと思う。

>> 映画「68の車輪」

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