骨細胞は周囲を堅い骨に囲まれた細胞である。普通に考えると、そんな難しい位置に好んで存在する細胞を生きた姿で見ようとも思わないし、窮屈な空間にいて、動きも少ないだろう細胞を、ましてや映画の主人公にしてみようなんて思いもしないはずだ。しかし、映画は作られた。
私が大学院3年生のときに、そんな現場に巡り会うことができた。当時の久米川教室は、まさにそれまで光の当たらなかった骨の奥深くに位置する細胞に科学者たちの目の輝きを導くための熱論、試行を絶えず繰り返す真っただ中にあった。
かくして、骨細胞は生きたまま取り出された。
そして、映画の主人公としての切符を手に入れたのであった。
骨細胞は、小林米作という名監督にも恵まれた。自分のありのままの姿を映し出してくれることを望んだ。そしてその真理は、映画を見る者にゆだねられた。映画「OSEOCYTE」の完成であった。
私は、この映画から数々のことを学んだ。 最初に、見えないだろうと思わず、見てみようと興味を抱くことである。
実際に動きこそ少ないが、この映画の中では、骨細胞が骨の中で生きたままネットワークを形成していることが捉えられている。この映画の作製の機会となったのは、先に述べた骨細胞の単離にあるが、私はこの映像を見て、生きた骨の中での現象に興味を抱くようになった。
次に、見るための努力をしなければならないということだ。
1秒の映画にどれだけの時間が込められているか、感じるようになった。その中には、撮影に関わるものの時間すべてが集約されていると感じるようになった。それは、構想であり、準備であり、忍耐であり、そして失敗を許容することである。
最後に、精度の高いものへの欲求である。科学的な真実は、人知を越えたところにあるものだが、得られた画像、動画からは、誰しもが共有できる事実を提供できる。そのためにも、科学者が共有できるより精度の高い、写真、映像を求めていく姿勢であり、欲求を持たなければならない。以上のことを、この映画は私に教えてくれた。
ありがとう、映画「OSTEOCYTE」。