製作:東京シネマ新社 企画:横浜市三殿台考古館 カラー 29分
三殿台遺跡は、横浜市磯子区岡村にある縄文・弥生・古墳時代のムラの跡。遺跡は、標高55mほどの小高い丘の、約10,000平方メートルmの広さがある平坦な場所にある。丘の周りの斜面には数か所の貝塚が点在し、明治30年代に発見され「屏風ヶ浦岡村貝塚」の名称で紹介された。
その後、隣接する市立岡村小学校の校地拡張予定地となったため、1961(昭和36)年夏、3カ月にわたって多くの研究者や中・高・大学生、市民ら延べ5,000人が参加して、遺跡全体の大規模な発掘調査が行われた。
調査の結果、縄文時代から古墳時代にわたる約250軒もの竪穴住居跡が見つかった。特に弥生時代の住居は170軒近くあり、当時のムラを知るうえで大変貴重なものである。三殿台遺跡は、1966(昭和41)年に国の指定史跡となり、翌1967(昭和42)年、三殿台考古館が開館して遺跡とともに公開されている。
東京シネマは、この発掘の様子を映画撮影した。当初は、16ミリ白黒フィルムであったが、後に35ミリカラーフィルムの撮影となった。
この発掘は、史的唯物論にもとづく古代集落や古代農耕社会の生産技術などを研究した考古学者、和島誠一(1909-1971)の指導で行われたが、当時のスタッフの中には、脚本の吉見泰、演出の杉山正美といった記録映画「月の輪古墳」(共同映画など、1953年)で和島とつながる人々がいた。
またプロデューサーの岡田桑三は、少年時代にハインリッヒ・シュリーマンのトロイ発掘にあこがれ、敗戦時の旧満州では、考古学者、江上波夫と応仁・仁徳陵の発掘とその映画による記録を夢見たりと、考古学には深い思い入れがあり、出土品を発掘時にできるだけ正確な色彩で記録する重要性を意識していた。
当時の東京シネマは、主に大企業をスポンサーとして作品制作を行っていた。その中で、三殿台の発掘記録は自主企画として進められた。
しかし「三殿台」は、映画作品としての完成を見なかった。
1960年代前半にはスタッフ間に党派的な対立が起こり、中期には会社自体が経営危機に見舞われ、考古館開設に伴っての横浜市の仕上費支出を辞退せざるをえなかった。
1989年に横浜市教育委員会の企画により、遺されたフィルムのテレシネ作業が行われ、発掘に参加された方々のビデオインタビューや、三殿台考古館に保存された出土品の追加撮影を行って、ビデオ作品として完成されたのが本作品である。
横浜市立大学講師 岡本勇
和島誠一
日本考古学協会