科学映画の制作

私と科学映画

< カメラマン 春日友喜 >

マリン・スノー

植物プランクトンの集まり
「マリン・スノー」

私と科学映画の関わりは、ほかならぬ小林米作さんに出会うという偶然があったからでした。もう50年前のことですが、掛け出しのカメラ助手だった私は、ある映画技術者互助組織に属していました。

その組織から「注文が厳しいので助手が長く勤まらないというカメラマンがいるが、行ってみるか」といわれ、なにしろ仕事がしたかった私は2つ返事で小林米作さんの助手になったのでした。どういうわけかこの助手は長続きして、やがて一本立ちのカメラマンになったのです。

わが師、米さんは2004年になくなりましたが、数々の作品が35ミリの原版からHD化され、インターネットで配信され自由に鑑賞できることになり、たいへんうれしい思いです。米さんは次々に名作を生みながら、やはり時間がたつとともに、医学研究者や映画関係者の中だけの話題になりがちで、このように埋もれそうな芸術文化遺産を誰もが目にできることは、きわめて意義のあることだと思います。

医学の最先端のその奥、未知の世界へ、いつも飛び込んでいった米さんの探究心と洞察力は、科学者も脱帽する鮮やかな表現を可能にする鋭い目を持っていました。いったん被写体をとらえたら寝食をわすれてくらいつき、その粘り強い眼光は恐ろしいばかりに輝いていました。

当時、東京シネマに、カメラに興味のある人なら誰でも知っている超有名な写真家が、重役として時折出勤していました。その重役が使用しているカメラを手放すと聞いて、恐る恐る尋ねたところ、私などの手の届くような金額ではなく、泣く泣くあきらめたことがあります。それは良く使い込んだあのあこがれのライカでした。

それからしばらくの後、何かの雑談のなかで米さんに「良い写真を撮るにはカメラではなく、誰の心にも感動を与える眼を持つことだ」と言われました。カメラマンになって2年、現場ではいつも「米さんならこれをどこから撮るだろう」とまず考え、少し自信がついたと勘違いして心におごりができた頃で、その胸のうちを見透かされたようなタイミングに、ショックを受けたことを記憶しています。以来、自分の頭からカメラの名器は消えました。

それからは米さんの広い背中を見ながら、ひたすら物の本質を見極めることに努力しました。カメラマンが被写体に正面から向き合い、その奥にある真実を「見たい、撮りたい」と決めたとき、周囲を忘れてしまうことがしばしばあります。そして、ルーペから眼を離しフッと力を抜いた瞬間、世の中に見てもらうという現実に立ち返ります。そこから果たして真意が伝わるかという葛藤が始まります。

しかしこの時間は、不安と自信と期待とが入り交じって、カメラマン冥利に浸り、快感さえも味わえる時間帯でもあります。反面、自分の視線だけのレンズの視野は、時として独りよがりの映像に固執してしまうことがあり、それは見る人に対する作者の傲慢と、心にうつる眼の未熟さをさらけだすことになるかもしれません。

米さんも若い頃からこんな経験をいくつか乗り越えて、重厚な眼を宝に「ミクロの鬼」と言われる域に達したと思います。数多くの名作を残して逝った米さんの映像は、超一級品であると同時に、医学界の貴重な資料でもあるはずです。半世紀をへても今なお新鮮な映像をぜひ、見てください。

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